秘密のくらし(3)『アラネア―あるクモのぼうけん―』(1979)岩波書店
ジェニー・ワグナー:作、ロン・ブルックス:絵、大岡信:訳
「それでも、だれひとり アラネアのすがたをみたひとは いませんでした。なつもおわりにちかい あるよるが やってくるまでは。」
クモは嫌いですか。ハロウィンの飾り物といえば、黒クモに黒ネコ。みんなオバケの仲間なんでしょうか。眼が8つもあるのは気味が悪いし、大きな牙も恐ろしい。糸で獲物をぐるぐる巻きにする狩りが我が身に及ぶ様子を想像すると、何だか落ち着かない気持ちになります。でも、私たちの身近にいるクモのほとんどは、人間には無害な生きものです。
『アラネア』は、庭の隅でひっそりと暮らすクモの物語です。Araneaとは、ラテン語でクモもしくはクモの巣のことだとか。クモ目の分類群名称ではAraneaeとなるそうですが、これは女性名詞です。主人公のアラネアさんもメスのクモでしょうか。大岡信の手慣れた翻訳には「彼女」などという芸のない訳語が出てこないので確かめようがないのですが、原語ではアラネアが「She」だったのかどうか、ちょっと気になります。邪悪でも凶暴でもなく、勤勉に日々糸を紡ぎ、危機に遭っても蛮勇に走らず、冷静に状況を把握して細心に活路を探すアラネア。モノクロームの繊細な線画で描かれるクモは、けっして恐ろしい生きものではありません。過剰な擬人化をストイックに排した描写とはいえ、クモの女の子が大冒険をしている……と思いながら読むと何となく楽しい。
アラネアの大冒険は、距離的にいえば庭の敷地の中で終わるスケールです。糸を風に流して「だれかのいえのにわの リラのしげみ」にすみかを定め、時間をかけて網を張る。人間に見つかる前に網を壊し、日中は丸めて糸で留めた葉の中に潜んでいます。網をつくる手順は、こんな感じ。網を張る段取りが連続的にわかる絵になっています。
「まず いっぽんを よこにわたし、それから わくのいとをはり、 つづいてぐるぐる ながいらせんを はりめぐらし、ついに みごとな あみになるまで。」
風にも飛ばされる彼女のサイズに降りていきながら読み進むと、ひっそりと葉の陰に隠れ、人間に見つからないように部屋を全速力で走り抜けるスリルを体感できます。家の裏口の石段の隅にぽつんと描かれたちっぽけな黒い点が、人間の庭で暮らすアラネアの大きさなのです。
「アラネアは またすこしよじのぼり、ちょっとのあいだ ようすをうかがい、それからいとを かべにしっかりくくりつけると、するすると下へおりました。ゆかを いそいでかけぬけると、 くらがりへ いちもくさんです。こうして うまく せんたくばに しのびこみました。」
嵐で水に流されて人家に避難したアラネアは、無事にリラのしげみに戻れるのでしょうか。
不運なクモと家の中で遭遇したときには、どうぞ騒いだり踏みつぶしたりしないで、そっと外へ逃がしてあげてくださいね。アラネアの冒険を見届けた子どもたちならば、きっとそんな大人になれるはずです。
クモの暮らしが気になったら、もう少し詳しいけれども子どもでも十分に読めそうな、こんな本はいかがでしょうか。にぎやかなイラストも楽しい本です。版元絶版のようですが、図書館には所蔵がありそうです。