アクト・ビヨンド・トラスト(abt)のメンバーが、日々感じたことを徒然に綴る「abt徒然草」、第9回目は、広報アシスタントの河野美由紀です。
石牟礼道子さんが2月10日、お亡くなりになった。多くの方々が追悼の辞を寄せていて、私はそれ以上の言葉を持たないが、「石牟礼さんが生きておられる間に著作を読むことができて幸せだった」というのが、訃報に接したときの最初の思いだった。
ちょうど同じころ私は、縄文人の思想や世界観を、考古学、神話、方言など様々な分野から探索し明らかにする、瀬川拓郎『縄文の思想』(講談社)を読んでいた。一般に、弥生時代になると縄文文化は駆逐され、日本中が弥生文化一色になったと思われがちだが、そうではなく、漁や海運を生業とする海民と、北海道で独自の文化を育んだアイヌ民族は、弥生時代もそのあとも、縄文人の思想や感性を持ち続けたという。
私が一番驚いたのは、そうした人々のもつ「商品交換への強い違和感、贈与への執着、分配をつうじた平等」(本文より)という、現代人の“常識”をひっくり返すような価値感であり、「自由・自治・平和・平等に彩られた世界」(同)だ。商品交換をなぜ嫌うかと言えば、「海民とアイヌにとって魚や獣は神からの贈り物にほかならず、人々はこの神からの贈与を分かち合うことで互いに結ばれていた」(同)からであり、それを貨幣に変え、ましてや蓄財するということは、彼らの頭にはなかったようだ。これが、限られた資源を争うことなく分かち合うために編み出された「生きるための知恵」であることには違いないが、一方で、様々な儀礼や祭りの場で、自分たちの生きる拠り所を確認しあい、貨幣社会に取り込まれない工夫を続けてきたことも事実で、そうした「思想」が息づく社会が過去にあったことに感動した。
石牟礼さんは熊本県天草で生まれ、その自然と、自然の中で生きる人々をとても愛しておられた。この天草を含む九州西部地域と縄文との強いつながりが、同書の中で何度か登場する。九州西部から南の島嶼は、弥生時代において、当時人気のあった装飾品の材料である貝の交易が盛んな地域で、その交易を担った海民が活躍する「貝の道」は、縄文の形質、習俗、地名をとどめた縄文ネットワークに重なるという。さらに、九州西海岸には今もアイヌ語地名が色濃く残っているという研究も紹介されている。
この事実を知ってから、あらためて石牟礼さんの著作を開いてみると、自然を神様からの贈り物として敬い愛しむ純粋な喜びとともに、自然を商品としてのみとらえる現代人への強い抗議の両方が渦まいていて、それはまさに縄文人の感性そのもののような気がする。石牟礼さんの本を読むと、いつも何か大きなものに包まれるような不思議な感覚を覚えるが、その著作を通じて縄文の世界観に私自身が共鳴しているのかもしれないと感じるのだ。
(写真は、九州西海岸の朝の海)