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トップページ コラム 【abt徒然草】 #6「野生動物と暮らす」

アクト・ビヨンド・トラスト(abt)のメンバーが、日々感じたことを徒然に綴る「abt徒然草」、第6回目は、広報アシスタントの河野美由紀です。

我が家には野生動物がいる。緑色の体にコバルトブルーの尾羽、顏の部分が深紅でやや頭でっかちなオウム目インコ科のコザクラインコ(♂)だ。野生動物とは書いたが、実際は浜松の繁殖業者から小鳥専門店を経て我が家にやってきた。しかし、一緒に暮らしていると、コップからではなく水滴をなめたがる(コザクラインコはアフリカの乾燥地帯が生息地)、引き出しの奥に気に入ったスペースを見つけると先住権を主張し人を寄せつけない(実際の生息地では岩場の隙間などをねぐらにしている)など、野生で生きるために予めDNAに書き込まれている(と思われる)行動を垣間見ることができる。可愛い表情に癒される毎日ではあるが、生きるということの原初的なシンプルさに触れ、畏敬の念を抱くこともしばしばだ。

鳥への興味は自ずと広がり、半年ほど前、ヨウムという大型インコの保護活動を行う西原智昭さん(アフリカ日本協議会理事)の講演を聞きに行った。ヨウムはおしゃべりが上手で、人間の4~5歳程度の知能を持つと言われている。その賢さゆえペットとして人気が高く、生息地である西アフリカでは密猟が絶えない。その密猟はヨウムにとって過酷を極める。100羽程度を罠で一網打尽にし、多くはストレスと病気のため数日で死亡、ペットとして海を渡ってくるのはそのうちの数羽程度なのだそうだ。「家族や仲間と引き離され日本にやってきたヨウムは、拉致被害者と同じなんです」。西原さんのこの言葉は、ヨウムを飼っている人はもちろん鳥愛好家にとっては大変厳しいものだが、否定しようのない事実である。

先日は、東京の井の頭公園で長年飼育され2016年に亡くなった象のはな子を描いた映像作品を見た。はな子については、30年にわたり献身的な世話をした飼育員の存在が本になる一方、カナダのブロガーの発言をきっかけに「孤独な象」としてその飼育環境が問題視されるなど、野生動物と人間の関係を考える上で議論の絶えない象徴的な存在といえる。映像作品自体はやや粗削りな感じが否めなかったが、作品中での監督の次の言葉が忘れられない。「人間は自分の人生について毎日のように真剣に考えますが、他の生きもののことについて、少しでも考えたことがあるでしょうか」

近年、犬や猫の殺処分に対する目が厳しくなっている。動物を取り巻く環境改善を願う人たちの訴えが届きつつある証であり、その地道で献身的な活動には本当に頭が下がる思いだ。一方で、人間は動物の暮らしや命と引き換えでなければ生きていけないというジレンマも抱えている。自然から切り離された都会に住む私にとって、この問題は大きすぎて、その複雑に絡まった糸をほぐす術もなく、考え始めては立ちすくんでしまうこともしばしばだ。

ただ最近、そんな私に知恵を授けてくれそうな人々に出会えそうな予感がしている。生きものや自然に対し畏敬の念と深い理解をもって接した、先住民族と言われる人たち(日本人としてすぐに思い浮かぶのはアイヌの人たちだろう)だ。残念ながら書物という形での出会いにはなるが、動物とともに生きる、動物の命をもらって生きるというシンプルな事柄に注がれた多くの知恵を学んでみたいと思う。人間は動物を思うままにできるという考え方は正しいのか、どこまでが許されるのか。動物愛護という西洋的、近代的な考え方からはこぼれ落ちてしまうような示唆が得られるような気がするのだ。

※写真は我が家のコザクラインコ